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姓名判断歴史シリーズ:武田信玄

甲斐が生んだ英雄

姓名判断歴史シリーズ:武田信玄1
戦国時代の武将『武田信玄』。
その名前は、たとえ歴史に詳しくなくても聞いたことがあると思います。

時は群雄割拠の戦国時代。
武田信玄の武田家は鎌倉時代から続く名門で、父の武田信虎第18代当主の嫡男として信玄は生まれます。
しかし、父信虎の強行的な領国経営への不信感と父子としての圧れきから対立。信玄21歳の時にクーデターを企て、父を他国に追放。
甲斐(今の山梨県)の国主(第19代当主)の座に着きます。

 政治家として優れたことが知られています。笛吹川と釜無川などがたびたび氾濫がおきていましたが、その治水工事(信玄堤など)を20年の歳月をかけて完成させ、同時に山が多い国土において、新田開発を奨励して土地の開墾に力を入れます。
その結果、国力を富ませます。
また、武人としては生涯で主だった敗戦は2度だけで、信玄亡き後に天下の覇者になる織田信長でさえも信玄の強さに常に警戒し、後の天下人の徳川家康さえもコテンパンに打ち負かしています。

信玄が国主に着いた時の領土は現在の山梨県と長野県の一部でした。
信玄が生涯で獲得した最大領土は、現在でいうところの長野県全土、群馬県の西側半分、静岡県の約3分の2。愛知県の一部にまで及びます。

 信玄の名言として有名なのは、「人は城、人は石垣、人は堀」というように、戦の前や国内政治での会議では重臣たちの意見をよく聞いたといいます。
つまりは人の交わり、人の大切さ、すべては人のつながりでなされる、その本質を重く理解していたのだと思います。

武田信玄の運勢

続いて、樹門流姓名判断で観る『武田信玄』の運勢です。
信玄もしかり、運勢に翻弄(ほんろう)された人です。

運勢とは能力があってもその通りになる場合もあれば、ならない場合もあります。
つまり、本意に進む場合もあれば、不本意に進むことがある、それが運勢であると解釈してください。

運勢の意味を分解してみます。
頭脳があり、その性格になります。その性格が人生を選択します。その結果を運勢と呼ぶのです。

武田信玄の頭脳性は感性の頭脳です。
打てば響く鋭い直感力があります。
本質を突いた、先の名言はこの感性のたまもので、戦の駆け引きのうまさもここからきているはずです。

性格には潔癖基準があり、清いものと悪しきものをより分別します。そして何をしても満ち足りません。常に不満足感が心を覆っています。

なによりも、人生および運勢は別れ多きものがあります。(斜め型:別称B型)
自分がよかれと思ったことが別れにつながります。現代であれば、パートナーがガンで亡くなるワースト1の人生です。

つまり、因縁(祖父母代の出来事が信玄の運勢に直結すること)は信玄の父方の祖父または母方の祖母が相手に恥辱を与えるほどの別れをしたために、今度は孫の信玄がそのわかれの恥辱を知ることになります。

また一番の問題は信玄の次の代が下降する運勢があります。これが武田家の滅亡につながった主な要因であると解釈します。

歴史的な最期はどうなったかというと、信玄率いる武田軍は史上最強の軍団でした。当時新興勢力として台頭してきた織田信長の力をそぐために京都に上り、時の室町足利将軍を補佐しようと西に向かいます。 
破竹の勢いで敵(徳川家康など)をなぎ倒し、現在の愛知県新城市にまで軍勢を進めますが、その数年前より発症していた結核が悪化して甲斐(山梨)に戻る途中で亡くなります。(享年53歳)

妻と子供たち

姓名判断歴史シリーズ:武田信玄2
下の枠内は武田信玄の妻とその子供たちの経歴です。閲覧を省力してもかまいません。
公式に残る5人の妻のうち、一人は没年不明のため、信玄より先に4人が亡くなっています。信玄は4人の妻に先立たれ、看取っていることになります。
要するに別れ多き人生で、まさに運勢のままと言えるのではないでしょうか。

正室:上杉の方
祝言(結婚)から1年目。難産のため、上杉の方も子(男女不明)も死去。(信玄10代)

側室1:三条の方
夫、武田信玄との間に長男、長女、二男、三男、次女の5人を生みます。
時系列的に、次男が失明。三男が夭折。さらに長男義信が謀反の罪で自害。長女は病死。
夫である信玄との中は良かったとされますが、長男と長女、三男を自分より先に亡くしています。
彼女の死因は信玄の結核が移ったとされます。信玄が亡くなる3年前に死去。

側室2:諏訪御料人
自身の父を武田信玄に攻め滅ぼされ、政略的に婚姻を結びます。
信玄の亡き後に武田家を継ぐことになる四男武田勝頼を生みます。
諏訪御料人は20代で病死(信玄も20代)

側室3:油川夫人
五男、六男、三女、四女、五女の母。信玄が亡くなる2年前に死去。

側室4:禰津御料人
七男の母。死去年不明。

武田信玄の死去は1573年。
その2年後の長篠の戦いにて織田・徳川連合軍に敗戦。これが武田家の暗転の始まりです。その後1582年織田信長の【甲州征伐】により武田家は滅亡します。

子どもたちは全部で12人。
男子が7人、女子が5人です。
そのほとんどは数奇な人生をたどることになります。

長男:武田義信
武田家の正統な後継者として育ちましたが信玄との意見が合わなくなり、謀反を起すも事前に阻止され幽閉される。その後自害。享年30。(信玄40代)

二男:海野信親
幼少期に失明し、武士の道をあきらめ仏門に入る。
武田家滅亡時に織田軍【甲州征伐】に攻められ自害。しかし、彼の子は生き延び、江戸時代も存続する。

三男:武田信之
11歳で夭折。(信玄20代)

四男:武田勝頼
兄である、長男は謀反、次男は仏門。三男は夭折したために、四男でありながら武田家家督を継ぐ。父の信玄亡き後の長篠合戦で織田・徳川家連合軍に破れ、その後武田家の弱体化が進み、1582年織田信長【甲州征伐】に攻められ、勝頼(享年37)とその長男の信勝(享年16)も自害。ここに戦国大名の武田家は滅亡します。

五男:仁科盛信
【甲州征伐】で織田軍の猛攻にさらされ、盛信はよく闘いましたが自刃します。(享年26)

六男:葛山信貞
織田信長の【甲州征伐】により、兄の武田勝頼が自害の後、信貞も甲府の善光寺で自刃。

七男:信清
米沢藩上杉家の家臣として生き、80歳で死去。

三女:真理姫
武田家配下の有力豪族木曾氏に嫁ぐも、【甲州征伐】により夫の木曽義昌が武田家を見限り織田家に寝返る。そのため実兄の勝頼は以前より武田家に人質として出していた二人の子供が処刑される。享年98。

四女:松姫
織田信長の嫡男・信忠と婚約をするも、両家は敵対し婚約は解消。
その後、織田家【甲州征伐】によって武田家が滅亡。さらにその二ヶ月後、本能寺の変が起こり、信長とともにかつての婚約者の信忠も死去。出家し、武田家と織田家の菩提をともらった。享年56。

五女:菊姫
上杉景勝の正室で実子なし。(享年47)

信玄のはかなさ

姓名判断歴史シリーズ:武田信玄3
武田信玄は都(京都)に武田の御旗を立てることを夢見て、自らの病を押してでも最後の力をふりしぼり、西へと進軍します。
しかし、その夢破れ戦国の世に散っていった悲愴を帯びたはかなさが残ります。
最期は運勢の中にある、“不満足”に満たされたのかもしれません。

歴史にイフ(IF)はありませんが、もし信玄に健康寿命があったのなら、ひょっとしたら織田信長に善戦し討ち滅ぼしたかもしれません。
先に申し上げたとおりに、信玄は徳川家康に圧勝します。家康はその戦いで命からがら敗走して、恐怖のあまり脱糞したエピソードが残されています。
しかし、その直後に信玄は体調を急速に悪化させ亡くなるのです。寿命が味方をしてくれなかったのです。武田信玄および武田家の運勢の悲運を感じざるを得ません。

また、家庭運は史実的に、そして運勢的に見ても、愛情、特に“別れに泣く一生”という表現はぬぐえません。信玄の運勢をして、人生の中でこれほどの別れがあっても自分を律することができるその力は想像を絶します。

余談となりますが、わたしの中で“武田信玄”史上、最高傑作のテレビドラマは、中井貴一さんが演じた1988年NHK大河ドラマ「武田信玄」です。
信玄の心のかっとうを細部にまで、上手に表現しており、中井さんはじめ演者の皆さんも珠玉の演技です。久しぶりにそのアーカイブを見ても心揺さぶられるものがありました。オススメいたします。

武田信玄の本名は武田晴信(正確には源晴信)、通称は武田太郎。法名は徳栄軒信玄。
そして後世の通称が武田信玄です。
最後についた名前で運勢は決まるのですが、すべての名前が次の代がつぶれる絶家代となります。したがって、“信玄”の五つのどの名前が最後に付いても同じような道をたどっていくことになるはずです。

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